☆豊平通行屋と志村鉄一☆
豊平は、西蝦夷地のイシカリ場所に所属するトクヒラ(『天保郷帳』)と呼ばれ、またトエヒラ場所とも呼ばれてイシカリ十三場所の一つして数えられていたようである。(『松前随商録』)天明六年には佐藤彦太夫知行主のトエヒラ場所(『蝦夷草紙別録』)が見えるが、その地が豊平地区の中にあるのかは未詳である。それでは、それ以降はどうであったのだろうか。江戸時代も末期、安政四年(一八五七)七月に箱館奉行所は札幌越新道(現在の国道三十六号線の前身)を開削、銭函~千歳間の交通路を開いた。しかし、豊平方面の開削を担当していた石狩場所請負人・阿部屋伝二郎は六月に命じられて七月に完成としたため、刈り分け程度の道であった。九月に見分に来た箱館奉行・堀利熙、その随行者であった玉虫左太夫(仙台藩士)により再整備が命じられているようであった。また、翌年四月にはもう一人の箱館奉行・村垣範正が新道を見分、阿部屋伝二郎を石狩請負人から罷免し、石狩役所調役の荒井金助に対して新道に対し「手入」をするように命じている。
この札幌越新道の開削中の安政四年、現在の豊平三条一丁目に豊平通行屋が立てられている。この通行屋の番人が志村鉄一である。安政四年当時の通行屋は建築途中で完成しておらず、仮普請の小屋程度の建物であったという。さきほどの堀・玉虫も見分中に立ち寄り、一泊しているが、玉虫は『入北記』の中で「未ダ普請ナラズ」と書いているほどである。また、村垣の見分においてもまだ完成しておらず『公務日記』の中では「小屋三棟有、通行(屋)建る積り」と記録され、三棟の仮小屋程度の物だったという。だが、松浦武四郎は『新道日誌』の中では「二ツの茅小屋を立有」と書いており、また無人で番人等は存在せず、渡河用の丸木舟が係留されている程度のものだったという。豊平通行屋の完成は、およそ札幌越新道の再整備が完成した安政六年頃ではないかと考えられている。この頃くらいに番人等の設置などが行われたのではないかと言われている。
通行屋は、旅行者の休憩・宿泊施設であり、特に豊平の通行屋は豊平川の渡河舟業務も果たした。もとはアイヌの漁場と小屋があり、その小屋跡地または小屋を利用して建設したものであろう。新道を紀行した松浦武四郎は豊平通行屋に渡河用にアイヌの丸木舟を使用し、現地のアイヌ人を舟守とし、宿泊者の食糧用として周囲に畑・川漁場を置くことを上申している。文久元年(一八六一)には石狩役所調役・城六郎が荒井金助らへ豊平通行屋業務に関して、豊平川渡河料の徴収・豊平通行屋に宿泊用の夜具等の用意・役人通行時に石狩からの番人が来てない場合は志村鉄一が賄いをすること・アイヌ人からは渡河料を徴収しないことの四つの意見を述べている。(『北地内状留』)その中で渡河料の徴収と夜具等用意は認められ、この頃には通行屋も整備されてきたのだろうと考えられる。
豊平通行屋番人である志村鉄一についてであるが、実際のところは伝承上の事柄が多く、実際の人物像は不明に近い。名前についても、志村鉄一(鐵一・『荒井金助事蹟材料』)のほか「志村鉄市(鐵市・『札幌区史』『北地内状留』)」や「志村鉄一郎(『従西蝦夷地石狩宗谷渡海、北蝦夷地白主より同西浦富内迄道中日記』)」など史料によって一致しない。また、出身地についても江戸または信州と違いがある。豊平通行屋番人になった時期については、石狩役所足軽・亀谷丑太郎によって伝えられている、石狩在住鈴木顕輔の家臣として石狩に来て、安政四年に荒井金助によって札幌越新道の豊平川東岸に給与・家具・食糧などを与えて宿屋守として移らせられたというものがあるが、安政四年の段階には通行屋にはいなかったという。それは、先述した松浦武四郎が安政五年六月に豊平通行屋(仮小屋時代)を訪問した時には無人だったということからである。それでは、いつから番人になったかというと、安政五年六月から文久元年五月までの間であろうと考えられている。それは先ほどの松浦武四郎の文書と、先述した石狩場所請負人の村山家による『北地内状留』にある「役人通行時に石狩からの番人が間に合わない場合は志村鉄一が賄いをすること」の部分である。ここから文久元年五月には番人になっていたことが確認できる。
志村鉄一が番人になるまでの経緯であるが、鉄一は石狩在住兼学問教授方・鈴木顕輔の家臣であり、安政四年七月に鈴木が箱館から石狩役所への移動の際に同行している。その後、安政六年八月に石狩から樺太のトンナイ詰に異動した在住(在住とは屯田兵のような武士で、旗本・御家人を主体として選ばれ(のちには浪人や陪臣からも選ばれた)、平時は農耕・戦時は戦闘員となる武士)が著した『従西蝦夷地石狩宗谷渡海、北蝦夷地白主より同西浦富内迄道中日記』の中で、出帆を見送った人物に高橋靱負・中村兼太郎・鈴木豊太郎がおり、その中の鈴木豊太郎(志村の主人・鈴木顕輔の子弟とみられる)のつきそいと思われる「志村鉄一郎」なる者がおり、これが志村鉄一であるとされている。これらから流れを考えるに、安政四年七月以前に鈴木顕輔の家臣として箱館に入り、安政四年七月に鈴木と共に石狩へ移動、安政六年八月までは石狩にいたと思われる。そして文久元年五月までには足軽格・二人扶持の身分で豊平通行屋番人になっていると考えられる。また、志村鉄一の家族であるが、鈴木とともに箱館入部・石狩移動時は本人一人だけであり、石狩に住んでいるときに家族(妻子三人と言われる)を呼び寄せ、豊平川河畔へと赴任したと考えられる。
通行屋番人の業務だが、河野常吉による『さっぽろ昔話』の中で、聞き取りの伝承ではあるが、番人業務・豊平川の渡し守業務・豊平川での密漁取締の三つが主な職務とされている。志村鉄一の場合、渡し守業務だけは息子である二代目鉄一が行っていた模様である。志村鉄一は豊平通行屋番人であったのかという問題もある。志村の職名は通行屋守・宿屋守(『荒井金助事蹟材料』)とも言われ「番人」職ではない。先述した『北地内状留』においても「石狩から番人が間に合わない」時の臨時要員としての身分になっている。「番人」職は別に石狩役所にいて、志村は現在で言えば留守番・在地管理人であったのであろうか。また、通行屋へ赴任したときには鈴木顕輔の家臣の身分から離れ、世間では浪人と言われていることから、石狩役所の現地派遣役人としての「番人」ではなく、江戸の自身番・辻番所の番太的(通称的には番人と呼ばれる)な位置づけであったのではないかとも考えられる。また給与と言われる二人扶持も役人としての俸給ではなく、屋守としての下級武士(足軽格)の役料(職務手当)または各地の通行屋全体を管轄する石狩役所役人(荒井金助等)からの給与的なもの(陪臣扱い)であったともいえよう。その後の志村鉄一だが、明治初年に通行屋停止となり、明治四年に豊平橋が架橋されると橋守に任じられるが、明治七年に罷免され、行方がわからなくなっている。息子と思われる二代目鉄一(志村鐵市・『市中人別申出綴』)は安政六年に札幌に来ており、幕府時代は父の渡し守業務を担当していたが、明治期に作られた『札幌永住其他願書』などには家族は一人と書かれており、父・鉄一が所在不明になったあとに作られたものであろう。
☆豊平村の成立☆
明治二年八月に札幌郡が設置され、同年十月に開拓判官・島義勇は「豊平開墾」事業を行っている。豊平開墾は島義勇の札幌本府計画の一環として行政村としての豊平村を創立する構想であったものらしく、本府計画に関する『石狩国本府指図』には札幌川(現在の豊平川)の東側に豊平村が記載されている。この豊平村は行政村としての村ではなく、自然村(集落)としての豊平村であろう。しかし、翌月には人事配置変更により、豊平開墾は中止となっている。
明治四年に豊平橋が架橋され、平岸村・月寒村が立村された。豊平地区では、明治六年に開拓使大判官であった松本十郎が当該地区に行政村落を形成することを計画、石川県から十数軒の入植者を移住させ加賀開墾地と呼ぶ集落を形成した。そして従来からの居住者らとともに翌明治七年九月の開拓使布令により立村させ、全国告示されて豊平村が誕生した。これが豊平地区における行政村の形成の最初である。明治四年から七年に至るまでの豊平地区の所属行政村であるが、明治七年二月の大小区制度下の第一大区第五小区の一部とされた月寒村に包含されていることから月寒村ではないかとも言われ、さらには札幌本府管内とも言われているが特段それを示す史料もなく、民家が点々としていた行政的無主地(地理的な空白地)であった可能性もある。この豊平村は豊平橋から望月寒川までの間であり、豊平地区を超えて現在の美園地区と月寒地区の境目あたりまでの札幌新道(明治六年に完成した札幌越新道を再利用した道路で現在の国道三十六号線等)左右沿線が村域範囲であった。
明治五年の戸長・副戸長制度制定のときには豊平村はまだ無く、明治七年九月の豊平村立村で副戸長の任命があると思われたが、戸数が少なかったために札幌市街の戸長が担当し、副戸長は置かれなかった。明治七年二月に制定された先述の大小区制度及び総代・副総代制度では、九月の豊平村立村のときに島倉仁之助が副総代となっているが、間もなく札幌市街の戸長の取扱に変更になっている。明治十二年十月、大小区制度が廃止されて旧制度的な戸長等は廃止され、開拓使札幌区の設立により郡区町村制度のもとでの郡長・戸長制度が新設された。豊平村・上白石村・白石村・平岸村・月寒村と合わせて五ヶ村を一つのブロックとして戸長がおかれ、翌年二月に片倉景範が上白石村四番地の自宅を戸長役場として戸長に就任した。明治十五年には開拓使が廃止され札幌県が設置されて札幌区も札幌県に編入された。明治十六年頃に藤田盛に戸長が交代し、白石村三番地に戸長役場を移転すると、役場と各村間の距離が遠すぎるとして、明治十八年二月に豊平村四番地(現在の豊平四条二丁目)に移転している。明治十九年には北海道庁の設置により札幌県が廃止となり、札幌区も北海道庁に編入された。六代目戸長・舟橋八五郎のときの明治二十四年六月には豊平十八番地(現在の豊平四条六丁目)に移転している。明治三十年六月には五ヶ村ブロックの戸長役場を二分割し、平岸村・月寒村・豊平村の三ヶ村戸長役場となった。明治三十二年、札幌区が自治体としての札幌区として再出発した。明治三十五年には北海道一級・二級町村制が敷かれ、豊平村は平岸村・月寒村を合併し面積八〇一平方キロとなり、自治体としての二級町村・豊平村となった。それ以前の豊平村は大字豊平村となった。大字豊平村は、同じく大字となった平岸村・月寒村の農業地帯とは違い、商業地帯であった。明治三十二年の大火で三五〇戸(明治二十四年の戸数は五六一戸)を類焼したが、明治三十六年の時点では人口は七九四六人、戸数は一五二三戸まで回復している。明治四十年には一級町村に昇格、翌年までには一八八一戸・約一万人を超えて二級町村・豊平町に昇格した。
☆豊平町と札幌区への編入☆
明治四十一年の豊平町昇格の少し前の明治三十七年に豊平村を形成する豊平村・平岸村・月寒村の三つの大字に対し、独立の村とする申請が宮城昌章豊平村長から北海道庁へ出されている。元々は豊平村と平岸村・月寒村は商業地区・農業地区と性格が違い、住民の民度も違う「難治村」であり、大字三村の協力一致は不可能で自治の確立のためには独立させて独立村を形成するべしとの意見であった。北海道庁は札幌区の区域拡大のねらいもあり、豊平町大字豊平村の札幌区との関係の深さや経済的な面での希望もあり、大字豊平村を札幌区へ編入させる計画を推進した。豊平町議会は満場一致で編入を決定、明治四十三年四月一日をもって大字豊平村の一部(現在の豊平地区全域)の五九七戸・三八八〇人を札幌区へ編入した。これにより豊平地区内にあった豊平町役場(かつて戸長役場であった)が月寒へ移転した。これをもって豊平地区は札幌区字豊平町となり、大正十一年には札幌市字豊平町、大正十四年には字が廃止され、札幌市豊平〇条〇丁目または札幌市豊平川岸〇丁目と改称され、昭和二十五年に豊平六条~十条の一部が旭町となり、豊平川岸が水車町と改称された。昭和三十六年には豊平町が札幌市と合併し、昭和四十七年に札幌市が政令指定都市となると旧豊平町の町域とともに豊平区となり、現在に至る。
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