豊平地区町内会連合会

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中川昭一 「豊平の歴史」

1.札幌開祖は豊平川の番人  
 
 江戸時代、私達の住む北海道は蝦夷地といわれ、主に蝦夷人といわれたアイヌの人々が住む地であった。蝦夷地は海の豊富な資源や、山の資源にも恵まれた未だ未開の原生林に覆われた地であり、日本の食糧調達の地として昔から本州に北前船などで広く交易されてきた地である。特に、生鮭・干鮭・鰊・昆布などの魚類、また熊や鹿などの毛皮類などの交易が盛んに行われていた。

 明和4年(1767)から9年間、大坂の木材商・飛騨屋九兵衛は豊平川上流、真駒内奥地から床柱や建築材などの大木を伐りだしている記録も残っている。
 石狩川河口(現在の江別)にあった箱館奉行所の石狩役所へ安政4年(1857)、荒井金助が調役として就任した。当時札幌近辺は未開の地であり、アイヌの小屋が数軒あったのみで、室蘭から千歳、豊平を通り発寒、銭函から小樽、余市・岩内へまたイシカリ・ユウフツを往復する小道があり、漁場へ行く出稼人が多く通っていた。

  安政4年、このサッポロ越新道の開削とともにトヨヒラ通行屋の普請工事が着手されたが、4年中に中途のまま道路も通行屋の工事も中断されていた。金助はこの豊平川の渡し守・通行屋の番人として志村鉄一を任命した。
 石狩役所は樺太までの管理があり、安政5年、ロシア船が樺太に来航して永住の気配があるとのことで、調査の命令を幕府から受け、石狩役所は士分8人・雇人20人が向かった。しかし、樺太の厳しい寒さなどで23人が凍死、5人が奇跡の生還をした。その中の1人に志村鉄一がいたという。

 その後の安政6年に志村鉄一は豊平川の番人として定住したようであり、鉄一は足軽格となり2人扶持を給与され、夜具なども準備された。和人として札幌中心部に初めて住んだ人として札幌開祖と言われるようになったという。

   

2010年9月号所収

     
     
2.開拓の功労者
 未開の森林が続く豊平川東岸に定住した志村鉄一親子三人は、鉄一が通行屋番をして、息子が船の渡しを担当していたようである。西岸の渡しは吉田茂八の家族三人と居候の三平爺さんが住んでいて、主に三平爺さんが渡しを担当し、茂八は猟師として熊やキツネなどを取って毛皮商売をしていた。後に土木工事を請け負い、創成川に「吉田堀」の名を残している。
 当時の豊平川は本流(豊平側)と支流(中央区側)があり、中州に太い丸太を立て、コクワのツルを繋ぎ、このツルを伝って渡し、対岸に大声で連絡して旅人を渡していたという。役人やアイヌは無料で渡し、旅人からは渡し賃をとっていた。しかし、渡し賃を払わぬ不届き者がおり、昼食を取っているうちに勝手に船を出し、渡って係留せずに逃げていくため、船が流されて不明となることがあった。
 また、春の雪解けの鉄砲水で夜中のうちに大水となり、船が流されてしまい、開拓使に始末書を出すこととなり「情状やむをえまい」とのことで無罪となった裁判記録も残っている。
 明治2年7月、新政府は北方開拓と防備のために開拓使を設置、開拓判官に島義勇を任命した。
   寒さ厳しい10月(新暦の11月15日)に銭函に到着、新道係・営繕係4名の小主典が吉田茂八宅を宿として札幌の開拓を開始した。
 この時、志村鉄一が案内してコタンベツの丘(北海道神宮付近の丘)に登り、神社予定地と札幌平野を展望し、札幌本府の位置を見定めるために協力するなど、札幌開府に協力している。
 しかし、初冬の開拓のために志村鉄一の管理する通行屋を創成川畔に移設して開拓使仮本陣を建てた。明治4年4月には初めて豊平の渡し場に橋が架かったため。鉄一は職務と住居と失い、一時的に定山渓の僧・美泉定山の所に寄寓したとも言われている。鉄一は「橋守願い書」を出して明治7年10月まで橋守として働いたが、その後に鉄一はある冬の朝に死去し、妻も不明で息子も間もなく亡くなったという。
 開拓に功労のあった志村の姓が無くなるのは惜しいと、平岸の中目文平は次男の春三郎を明治12年に志村家養子としたが、その後、中目家も長男が死去して後継ぎが無くなったため、明治23年に養子解消の「廃家復籍願」を豊平村に提出した。その書類が現在も残っている。
   

2010年12月号所収

     
     
3.変容する町並み
 明治2年、島義勇判官による札幌開拓はわずか4カ月余で止まったが、明治4年の岩村通俊判官着任とともに計画が本格的に始まった。開拓使庁舎・工業所など官用地と商店などの町屋地などを碁盤の目になるように道路を計画し、街づくりが進められていった。5月には豊平川に初めての橋がかかり、平岸・月寒・白石には開拓者が入植し、開墾の土音が響いていった。
 豊平地区は月寒・平岸・広島村・恵庭村などからの農産物や林産物を札幌へ運ぶ中継地であった。当時交通機関は馬であり、馬に関する商店が多く、泊りがけで来る人と馬がとまる宿屋もあり、豊平で日用品や農具などを買って帰る便利な地で、肥料・雑穀・種屋・縄工場・鉄工場・病院など商工業の町として発展していった。
 同じ明治4年、開拓次官となった黒田清隆はアメリカに渡り、時の農務長官ケプロンを開拓顧問として招き、トーマスやアンセチル等と来日し、開拓事業の推進と諸調査の指揮にあたった。
 明治11年まで開拓使の御雇外国人は76人にもなるが、明治9年に札幌農学校を開校して教頭として招いたウィリアム・S・クラークには日本の若者に諸外国の進んだ学問を学ばせた。それは農業だけでなく、物理学・獣医学・治水土木学など開拓に必要な学問とともに簿記学・弁論術・修心学などもあり、すべて英語で行われ、ノートも英語で提出しなければならなかった。明治18年には北海英語学校が開校され、南4条西2丁目の豊水小学校立ち退き跡に移転した学校は中学校卒業資格取得のため、明治38年に北海中学校として認可された。
   その後、生徒の増加により、明治41年に豊平の地に31400坪の新校舎・グラウンドが完成したのである。当時豊平地区はおよそ800世帯4800人であった。
この豊平にこのような話がある。「豊平市街があまりにも静かだ。鍛冶屋のトッテンカンの音が一つも聞こえない。『それっ』と言うことで北海中学のグランドにやって来ると案の定北海中学と他校の野球試合が始まっていた。豊平市街の鍛冶屋は全部戸を閉めて応援に来ていた」(豊平小学校百年誌)との記録がある。
 開拓当時から家屋は全て木造で柾屋根であった。豊平では明治・大正時代に3回もの大火が発生している。明治33年5月、豊平村14番地のアメ製造業の佐々木方のカマドから出火した火災は235戸を焼失する大火となった。大正8年の大火では96戸の焼失家屋があり、当時の北海タイムス5月14日の記事によると「札幌消防組全員、平岸消防組、札幌警察署長以下全員、道庁警察部ほか教習生等60名が消防・破壊に協力、月寒25連隊の消防中隊ほか2個中隊が駆け付け、北海中学は出火とみるや直ちに全生徒を挙げて罹災者の救助に務め、消火に至るまで家財の運搬に助力した」とある。幾多の災害などがありながら豊平の町は発展していった。





 
   

2011年3月号所収

     
     
     
     
     
     
     
     






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